Japonism Victoria vol.8 no.9

 

神道と仏教と日本人《第4回》

Vincent A. @ ELC Research International

仏の実存

前回は神道と仏教の違いについてお話ししました。仏教が論理性を重んじる宗教であるのに対して神道は感覚的・霊的認識を拠り所とする宗教であること,神道の神は実存するが,仏教の仏は観念上の存在であり実存するものではないことをご説明しましたが,原理的には実存しないはずの仏も実際は実存する可能性があるとも申し上げました。仏の実存の問題は日本の仏教や神道を考えるうえでとても良い材料となりますので,今回はこの点についてお話しします。

仏が実存するか否かは,残念ながら今のところはっきり申し上げられません。しかし,神はほぼ間違いなく実存していますので,仏が実存する可能性は非常に高いように思います。また,千年,二千年という気が遠くなるほど長い時間,大勢の人々の篤(あつ)い信仰の対象であり続けた仏が単に観念上の存在,すなわち,人間の観念操作による産物とは思い難く,神と同じように何らかの実体をもつ存在と考えてもよいように思います。

しかしながら,この問題に関して仏教は,宗派による考え方の違いというだけでなく,全体に態度がはっきりしないのです。僧侶たちは仏は実存するとも実存しないとも,明確におっしゃらないのです。仏の存在のあり方は仏教の根本問題のはずですので,僧侶の曖昧な態度はとても不可思議に思えるのですが,しかし,実はそれには理由があるのです。それは,仏が実存するのか否かという問いは,神の実存を前提として物事を考えようとする神道的なアプローチであって,仏教的にいえば,これはそもそも考える必要がない問題なのです。そこがまさに仏教が哲学といわれる所以(ゆえん)でもあるのです。少し遠回りになりますが,まず神様からご説明しましょう。

日本人にとっての神々の存在

日本で神といえば一般に神道の神を意味しますが,神祇(じんぎ)信仰や古神道(こしんとう)といわれるように,日本人は神道が成立する(宗教的形態を整える)以前から神を崇(あが)めてきました。その神とは,私たちの人智をはるかに超越した畏れ敬うべき崇高な存在であり,本質的には神霊または御霊(みたま)と呼ぶべきものです。神霊は霊的世界に実体をもって存在しており,基本的に霊的な能力が高ければ見ることができるものです。

霊的世界などというと心霊主義(spiritualism)と誤解されそうですが,私は霊との交信とかパワースポット探しなどにはまったく興味がなく,その点では私はごく普通の仏教徒に過ぎません。亡くなられた方の霊についても,”あの世”で安らかに過ごしていただければそれで十分なのです。日本の平均的仏教徒と少し違う点があるとすれば,私は事情があって浄土真宗の信徒であると同時に真言宗の信徒でもあり,なおかつ,心情的には神道信徒であって,日本にいるときは寺よりも神社にお参りすることが多いという,きわめて節操のない仏教徒というところでしょう。

さて,神は霊的世界の高次の存在ですが,人間もこの霊的世界と深くかかわっています。ごく簡単にいえば,人間は死によって肉体と霊魂(霊)が分離し,肉体は朽ちますが,霊魂は霊的世界で生き続けます。そして一定の年月が経過すると霊魂は新たな肉体を得て再びこの世に生まれ出ます。そしてしばらく現世での生が続き,再び死によって霊魂は霊的世界の存在となります。生と死がこのように繰り返される過程で,霊魂は色々なことを学び続け,霊的により高いレベルへと少しずつ進化します。これが輪廻(りんね)といわれるものです。

ちなみに,キリスト教は輪廻を基本的に認めません。生まれ変わりはなく,生は一回限りです。ある牧師が「輪廻などあり得ない。前世があるのなら,私たちには必ず前世の記憶があるはずだが,そんな記憶はない。」と述べていました。しかし,現世の物差しで霊的世界を測っても意味がありません。生まれ変わりには複雑な仕組みがあるようで,私は詳しくは存じませんが,前世の記憶は生まれ変わるときにリセットされるようです。前世の記憶が消されず鮮明に残っていると”前世の恨みを何としても今世で晴らしたい”と考える輩(やから)が続出して,世の中が修羅場(しゅらば)になりかねないからかもしれません。ただ,人間の意識下では前世の記憶は完全には消去されていないようです。

神道に戻りましょう。神が霊験をもって人間の前に出現することを示現(じげん)といいます。祭祀(さいし)など特別な儀式の際に神官や巫女(みこ)などの然(しか)るべき者が然るべき方法で請うことで神が降臨するのがその典型です。しかし,神はこのような特別の場合だけでなく,”自由意志”によって人々の日常生活の中に頻繁にお出ましになっているようなのです。つまり,私たちは知らぬ間に神と遭遇しているかもしれないのです。

例えば神社ですが,私たちは神様が本殿の奥に鎮座(ちんざ)されているようにイメージしがちですが,神様は,日頃から神を真摯(しんし)に畏敬する人が神社に参拝に来ると本殿からお出ましになるとか,あるいは神社の近隣の人々の様子を見に出かけるとか,自由に動き回っておられるようなのです。そもそも,日本の家庭や商店・事務所に祀(まつ)ってある神棚は,ご神体や神社札を祀る棚であると同時に,そこにおいでになる神様を迎える場でもあるのです。神棚の両側に供える榊(さかき)は神様が降臨される際の依代(よりしろ)(*1),すなわち,神霊が乗り移るための植物です。また,神様をお迎えするために米,水,塩,さらに地域によっては果物や魚などの供え物も欠かさず神棚に供えます。神棚を常に清浄に保ち,神棚の前で毎日,真摯にお祈りをしていると神様がおいでになることは必ずしも絵空事ではないようです。

神がなぜこのように人々の前に出現するのかというと,ひとつは,人々に神の存在や神威を示すことに何らかの意義がある場合で,祭祀のように神が特別に請われて降臨するのがその典型です。しかしそれ以外にも,人々が何かを真摯に祈るときに神霊が降臨し神威を示すとか,あるいは,人々が何か大切なことを必死でやり遂げようとしているときに神霊が降臨してその手助けをすることもあるようです。後者は日本で古くから「神憑り(かみがかり)」といわれているもので,例えば,医師が患者の手術中に極めて困難な事態に直面したとき,何かの力が医師の手を動かして窮地を乗り越え手術を成功させたという例もあるようです。

また,神様は好奇心がとても旺盛で,人々が何か楽しそうなこと,興味深そうなことをしているとその場にお出ましになることがあるようです。例えば日本のお祭りですが,日本では祭りは一般に神社を中心に行われます。それは祭りが本来的には神(氏神)(*2)を楽しませようと行う神事だからです。もちろん,神社に集まる人々が祭りを楽しむ姿を神様にお見せすることも,祭りの大事な役目です。

宗教学ではしばしば,日本の神は怒ると祟(たた)る怖い神であることが強調されますが,実際は少し異なり,日本人にとって神々は畏れ敬うべき崇高な方々であると同時に,時として人々のすぐそばにお出ましになられる,親しみのある方々でもあるのです。そして,神々を身近に感じる文化風土の中で生まれ育つ日本人の中に,”神(神霊)に見守られながら生きている”という認識が意識的にまたは無意識的に涵養(かんよう)されてきているのだと思います。

このような文化風土の中で,人々は神に対するのと同じように仏を崇めてきました。したがって,当然のことながら,人々は仏を神と同じように実在するものとして信仰対象としてきたのです。つまり,神や仏は目には見えなくても,そこには何かが存在すると考えてきました。しかし,僧侶たちは少し違うのです。

霊的世界に対する無関心

仏教の開祖である釈迦牟尼(しゃかむに)は,いかにすれば煩悩(ぼんのう)から脱却して悟り(さとり)(*3)に達することができるかを追求しましたが,彼自身は死後の世界や輪廻そのものには関心がありませんでした。釈迦にとって生きることは煩悩に左右されて迷い苦しむことですので,死後に再び生まれ変わるという輪廻は,その苦悩を繰り返すことに他ならないからです。釈迦が求めていた解脱(げだつ)(*4)とは,煩悩からの脱却であると同時に,輪廻という苦悩の循環からの離脱でもあったのです。

仏教は長い歴史の中で大きく変貌(へんぼう)しましたが,死後の世界(霊的世界)に対する釈迦の無関心はその後も僧侶たちに脈々と受け継がれ,現在でも,僧侶は全般に霊的世界に対して驚くほど無関心です。日本の仏教は葬式仏教と揶揄(やゆ)されるほど死者の弔(とむら)いや死者の霊の供養に大きくかかずらっているのですが,実際のところ,僧侶たちは霊や霊的世界のことにあまり関心はないのです。少し意地悪な言い方をすれば,僧侶たちにとって葬儀や年忌(ねんき)供養は需要があるがゆえのサービス──宗教行為──の提供であり,営業政策上大切な収入源であるにすぎません。

また,霊的世界について考えるためには神道のような感覚的・霊的認識が重要となるのですが,哲学的・論理的思考に慣れている僧侶にとって,そのような感性的アプローチは苦手ということも,彼らの霊的世界に対する無関心を助長しているように思います。

霊的世界に関心のない僧侶にとって,霊的世界はなきに等しいことになります。これがいったい何を意味するのかというと,仏の「居場所」がないということなのです。すなわち,仏が現世に存在していないことは明らかですので,したがって,もし霊的世界がないとすると,仏には居場所──仏を位置づける世界──がないという困ったことになってしまいます。そこで登場するのが「観念の世界」です。人間が観念でのみ認識できる観念世界が仏の居場所となるのです。それが”仏が観念上の存在であって実存するものではない”ということの本当の意味なのです。

観念世界であれば,仏の存在について観念操作によって人間が自由に定義できますので,仏が実存するか否かは問題になりません。そもそも,「実存」という言葉自体が不要なのです。僧侶たちが仏の実存・実在について曖昧な態度をとる理由がお分かりいただけたでしょうか。

一方で,仏を観念世界に位置づける僧侶たちの「仏認識」は,そのまま,彼らの「神認識」へとつながります。すなわち,僧侶たちは全般に,神道の神についても仏と同じように観念上の存在ととらえるのです。したがって,彼らが神が実存するかもしれないと考える余地は,ほとんどないことになります。その意味では,神仏習合とはいいながら,僧侶たちの神認識・神道認識は恐ろしく貧弱といわざるを得ません。

仏の実存の可能性

最後に,仏を観念世界に位置づけている仏教ですが,その仏教が仏の実存を完全に否定しているかどうかは非常に微妙です。例えば,密教系の真言宗では「宇宙」という言葉を使いますが,これは霊的世界と解釈できなくもありません。同様に,浄土系の浄土宗・浄土真宗が教える浄土(*5)は,死者の霊が赴(おもむ)く実存する場所とも考えられますので,これも霊的世界の一部と解釈できなくもありません。

これらの宗派で実存する霊的世界が想定されているとすれば,本尊とされる大日如来や阿弥陀如来の仏が実存する可能性は大いにあると考えてよいのではないかと思います。

(次回に続く)

[注] 文章中の用語の意味についてはWikipediaをご参照ください。

*1:依代(よりしろ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9D%E3%82%8A%E4%BB%A3
https://en.wikipedia.org/wiki/Yorishiro

*2:氏神(うじがみ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E7%A5%9E#.E6.B0.8F.E5.AD.90
https://en.wikipedia.org/wiki/Ujigami

*3:悟り(さとり)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A
https://en.wikipedia.org/wiki/Bodhi

*4:解脱(げだつ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1
https://en.wikipedia.org/wiki/Moksha#Buddhism

*5:浄土(じょうど)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F
https://en.wikipedia.org/wiki/Pure_land

神道と仏教と日本人《第4回》
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