Japonism Victoria vol.8 no.8

神道と仏教と日本人《第3回》

Vincent A. @ ELC Research International

神道と仏教の違い

このシリーズの第1回と第2回では,日本に伝来した仏教が日本古来の神道(古神道・神祇信仰)を包摂(ほうせつ)しようとして編み出した神仏習合という壮大なレトリックの歴史についてお話しました。

最初に用いられたシナリオは,『神自身が長く神であることに疲れ果て,仏教に帰依して救われたいと願っている』という神身離脱の託宣と,その神の”願い”をかなえるため神社境内に神宮寺(じんぐうじ)と呼ばれる寺を建立するというもので,実際,日本の多数の神社に神宮寺が建てられました。天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)る伊勢神宮も例外ではなく,仏教は神を救うことができる偉大な宗教であることが喧伝(けんでん)されました。

つぎに用いられたシナリオは,神は仏の化身(けしん)という化身説(本地垂迹説)(ほんじすいじゃくせつ)でした。本地垂迹説とは,『神の背後には神よりはるかに崇高な仏様がおられるが,仏様はあまりに崇高なため人々には分かりようがない。そこで仏様は”神”という民にも分かる低次のお姿に化身されて現れたもので,すなわち,神は仏様の化身なのだ 』というものです。神道に対する仏教の優位性をあからさまに説くものでした。

しかし,このような巧妙なレトリックを駆使しても,仏教僧侶たちは日本を仏教国にすることができませんでした。その要因には,日本人が神道を捨てられなかったという面と,仏教側が戦略を間違えたという面の少なくともふたつがあるように思われますが,それを考える前に,まず神道と仏教の違いについてお話ししたいと思います。

仏教の哲学性と神道の感覚性

仏教では解脱(げだつ)(*1)または悟り(さとり)(*2)という究極的な理想状態が規定され,その理想に向かって人間はどのように生きるべきかが説かれます。日本では仏教は「葬式仏教」といわれるほど,もっぱら人間の死や死後の世界を扱う宗教と思われがちですが,実際はそうでなく,現世において人間はいかに生きるべきかという根本命題について,大勢の頭脳明晰な僧侶たちが膨大な時間をかけ,思惟(しい)を積み重ねて体系化してきた哲学であり思想なのです。力強い骨格をもつ学問体系といってもよいでしょう。思索にもとづいて体系化されてきたがゆえに,仏教は論理性・思想性を非常に重んじています。それに加えて,仏教は僧侶たちの厳しい修行に裏づけられた強い呪術性も兼ね備えていますので,恐るべきパワーをもつ宗教といえます。

これに対して,神道はとても素朴で,力強さという点では仏教と比べようがありません。まず,神道には開祖がいませんし,体系化された教義も教典もなく,したがって教義にもとづく説教というものがありません。また,今でこそ,ほとんどの神社に荘厳な社(やしろ)が建っていますが,神社の原型はそのような建物ではなく,祭礼や儀式など特別なときに招き寄せられた神霊が降臨する場所,すなわち,注連縄(しめなわ)と紙垂(しで)(*3) で定められたごく狭い範囲の『神域』が神社そのものでした。この神域に岩や樹木など,神霊が乗り移るための依代(よりしろ)(*4)とよばれる特別なシンボルが祀られているだけの,非常に質素なものでした。

神道には仏教のような強い哲学性・思想性がありません。神道では”言葉を操(あやつ)る”ことをあまり重視しないのです。神道において「神」とは畏れ敬う対象そのものです。神は人智をはるかに超えた存在ですので,人間が作った言葉あるいは論理という”愚かな道具”で神の意志や神の存在を推し測るような不遜なことは避けるのです。神道が大切にしていることは,教義・教典やそれを貫く理論など言葉による思索で作られた「作品」ではなく,純粋に神を畏れ敬う心(sincerity)であり,二次的には,その心を形に表す祈祷と祭祀,そしてその心を人々が日々の生活のなかで実践するという意味で,人々が”正しく生きること”なのです。

いいかえれば,神道においては,言葉や論理を介在させて神の意志を推し測ろうとする(正しい生き方を思索する)のではなく,もっと直接的に,神霊の存在を霊的に知覚しながら生きること,それ自体が神の意志にかなうものと考えるのです。したがって,神道は非常に感覚的・霊的な認識を拠り所とするものといえますので,西欧文明的な価値尺度からすれば,おそらく相当に原始的な宗教にみえることでしょう。

それはさておき,このような仏教と神道の違いは,しかしながらごく表面的な,いわば”目にみえる違い”でしかありません。問題の本質は,このような差違がなぜ生じてくるのかということです。仏教と神道には根本的にどのような違いがあるのでしょうか。

実存する神と観念世界の仏

仏教と神道には根本的にどのような違いがあるのかという問いは,なぜ仏教は思惟を重んじるのか,なぜ神道は感覚的了解を重んじるのかという問いでもあります。そして,その答えは,神道であがめる神・神々は実体として存在するが,仏教であがめる諸仏は実存せず,すべて観念上の存在であるから,というものです。この違いが神道と仏教を決定的に色づけているといってよいでしょう。

まず,神道について。神は実存するというと日本人のなかにも驚かれる方がおられることでしょう。しかし,どうやら神様は実体として存在しておられるようです。そしてこのことは,たいていの神社宮司の方たちはご存じのはずです。ここで「ご存じ」というのは「信じている」ということではなく,「分かっている,気づいている」という意味です。宮司の方々の中には神様の姿がみえるとか,言葉が聞こえるという方も少なくないようです。また,一般の方々の中にもそういう方がおられるようですが,ただ,普段は皆さん,そういうことは口に出さないだけのようです。

しかし,神霊を知覚できる宮司の方々も神様と自由に”会話”ができるわけではありませんので,神の意志を推し測るためには,日々,研鑽(けんさん)に努め,自身の精神と肉体を清浄に保ち,神霊に対する感覚を常に研ぎ澄ませておく必要があります。また,神社の氏子(うじこ)(*5)の方たちも,神社境内を毎日清掃するなど,神(氏神)を畏れ敬う気持ちを持ち続けながら”正しく生きる”よう努めることで,神霊の存在を肌で感じながら生活してきています。つまり,神が実体として存在しているからこそ,神の存在や神の意志を,愚かな人間が作り出した言葉や観念でことさら”表現する”(概念化する)必要などなく,神を畏れ敬う心を保ちつつ神と共に生きれば十分ということなのです。

このように神道では神霊に対する感覚的・霊的な認識がベースとなっており,言語を用いた思惟の重要性は相対的に低いのです。

さて他方の仏教ですが,前述のように,仏教において『仏・仏様』はすべて観念上の存在であり,実体として存在するものではありません。

仏教の開祖は釈迦牟尼(しゃかむに)で,日本では「お釈迦様」として親しまれている実在の人物です(BC624-BC544)。仏教でいわれる仏陀という言葉は,本来的には解脱により悟りに達した釈迦牟尼をいうものですが,釈迦と同じように悟りに至った僧を仏陀と呼ぶこともあります。ただし,悟りが観念上の状態であるのと同じく,仏陀も観念世界で定義された状態ないし存在であって,釈迦牟尼が入滅後に仏陀として実存しているということではありません。

仏陀は,迷い(煩悩)を完全に捨て去り,悟りの涅槃(ねはん)(*6)の境地に達した僧の状態ないし水準を指す観念的な呼称であって,仏陀という超自然的な何かが実在しているわけではないからです。 また,仏教は多数の宗派を擁していますので,釈迦のほかにも様々な”仏様”が信仰の対象(本尊)とされています。日本語の仏という言葉は,元々は仏陀(=釈迦牟尼)の省略語ですが,如来(にょらい)や菩薩(ぼさつ)など,仏教における多様な信仰対象を総称するものとして用いられています。如来や菩薩などの名前も,悟りの涅槃の境地に達しているか,その直前にある状態を指す観念的な呼称であり,いずれも実存を意味する語ではありません。

仏教の原点は,完全な解脱により得られる悟りという観念上の状態であり,仏教の本質はその悟りとそれに至る道筋の概念化にあるといえます。インドで生まれた仏教が中国を経て日本に至り,日本で独自の展開をみせた結果,現在の日本の仏教では,解脱や悟りよりも死後の救済(浄土往生)(じょうどおうじょう)(*7)が主たる課題となっていますが,浄土も往生もすべて概念操作によるものです。ですから,仏教は哲学であり,思惟が非常に重要視されるのです。

* * * * *

さて,神道と仏教の違いを簡単に説明しましたが,これで話が終わるわけではないのです。実は問題はそれほど単純ではないのです。ここまで,私は仏教において仏は実存しないと述べてきましたが,非常にいいにくいのですが,それとまったく矛盾することを申し上げなくてはならないからです。

どうやら,仏様も神様と同じように実体として存在しておられるようなのです。原理的には実存しないはずのものが現実的には実存しているかもしれないという,このおそるべき混沌状況こそが,日本における神道と仏教の複雑さを如実に物語っていると思いますが,それについては次回お話ししたいと思います。

(次回に続く)

[注] 文章中の用語の意味についてはWikipediaをご参照ください。

*1:解脱(げだつ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1
https://en.wikipedia.org/wiki/Moksha#Buddhism

*2:悟(さと)り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A
https://en.wikipedia.org/wiki/Bodhi

*3:注連縄(しめなわ)と紙垂(しで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E9%80%A3%E7%B8%84
https://en.wikipedia.org/wiki/Shimenawa
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%82
https://en.wikipedia.org/wiki/Shide_(Shinto)

*4:依代(よりしろ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9D%E3%82%8A%E4%BB%A3
https://en.wikipedia.org/wiki/Yorishiro

*5:氏子(うじこ)と氏神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E7%A5%9E#.E6.B0.8F.E5.AD.90
https://en.wikipedia.org/wiki/Ujigami

*6:涅槃(ねはん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
https://en.wikipedia.org/wiki/Nirvana

*7:浄土往生(じょうどおうじょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F
https://en.wikipedia.org/wiki/Pure_land

神道と仏教と日本人《第3回》
error: Content is protected !!